目次『本音が音を、失うとき』
龍はついに、ついに、納得のいく長編小説を書き上げた。自身で何度も書き直し、文章をあえてぐちゃぐちゃにした。彼は整った文章が人の心を動かすわけではないと信じていた。人の心を動かすのは、いつだって情熱。いつだって“本気の言葉”だ。この小説のテーマは「本音」だった。その世界で、ある人物の死をきっかけに、世界中すべての人々が嘘しかつかなくなる。そしてゆっくりではあるものの、着実に世界は崩壊に向かっていく。彼は“全エネルギーを夢に注ぎ込むことのすばらしさ”についても書いた。しかし、彼はその中にも嘘が含まれていることに気が付かなかった。自己正当化が含まれていることに気が付かなかった。心は、必死に彼に訴えかけていたのだが。
その小説を応募した翌日、龍は病院に駆けつけていった。健吾が交通事故にあったと聞いたからだ。電話の内容から判断すると、どうやら彼は車に轢かれたらしい。命に別状はない、という看護師の言葉が、限りなく澄んで聞こえた。病院に着くと、健吾は眠っていた。彼は深く眠っていたが、顔色は決して良くなかった。彼は高校三年生の時のことを思い出していた。蓋は開かれる。
お宅の次男が亡くなった。母が受話器を取った時、電話越しの相手の声はリビングで勉強していた僕にまで、聞こえてきた。その時の情景は今でも忘れられない。僕は地球がひっくり返るような感覚を覚え、上も下もわからなくなった。床に置いた椅子に座っているのか、それとも天井に張り付いた椅子にぶら下がっているのかわからない。変な表現だが、それがその時の感覚だった。痛撃というよりはただただ現実感の消失、現実への不信。あるいは運命への不信。数年前にラグビーの試合中に倒れて亡くなった長男、昨年に呼吸困難で亡くなった父に続いて、次男までも。
死因は過労。僕は神様がいるんだったらそいつを殺してやりたい、とさえ思った。
ばかばかばか。昨日電話で話した時は、あんなに元気そうだったじゃないか。アルバイトで過労死なんて、全く美しくないよ、兄ちゃん。10個バイト掛け持ちして、一日18時間働いて過労死なんて、全く美しくないよ、兄ちゃん。僕を大学に通わせようとして、過労死なんて、全く美しくない……。ボロボロと流れる涙が止められない。大学なんて、別に行きたいわけではないのだ。なんで兄の異変に気付いてあげられない━━。
受話器で第一声を聞いても、母は僕に涙を見せなかった。しかし一言もしゃべれず、一歩も動けず、僕にその震える背中を向けたままだった。電話が切れてしばらくすると、僕の方を向いて笑顔を見せた。「さ、さて!ご飯にしましょうか!龍」