目次『ペットショップで君に逢う』
「お前、顔色悪いぞ」ヨウの家に着くと、彼はドアを開けたまま驚き、そう言った。
「とりあえず……入れてくれ」
「ああ、悪い悪い」僕の両手が買い物カバンでふさがっているのを見て、ヨウは苦笑いした。
僕は一辺1メートルほどの正方形の机をはさみ、向かい合うようにして座った。
「厄介な猫がいてね」僕は切り出した。
「倒れている自転車を起こしたら、急に俺になついてしまって——俺が動物に好かれるのは後にも先にも多分これっきりだぜ——最初はかわいいと思ってたんだけどな……その猫、階段上って俺の部屋の209号室の前までついてくるんだぜ。それだけじゃない。俺が別れを告げてドアを閉めたらだな……急に虎の咆哮みたいな鳴き声を出すんだ。ぎゃああああああってな。お前んちに来るのも一苦労だったよ」ヨウは終始真顔だった。
「ホント……もう2度と倒れてる自転車なんて起こすものかって思った」僕はオチをつけてみた。真顔だった。僕も真顔になった。3秒間真顔で見つめあった後、ヨウがプッと吹きだした。
「はっはっはっは!」「そりゃ災難だったな」
僕がホッとすると、ヨウは今度は真顔というより、真剣なという形容が適した顔になった。
「でもお前のその蒼白な顔の原因はそれではない」ヨウは低い声で言った。そして僕の目をじっと見た。そうかもしれない、と僕は言った。しかし、それ以上僕が何も話し始めないのを見て、ヨウは神妙な顔を緩め、「ともかくハンバーグ作るか!」と言った。そして直径100メートルの人々全員を安心させるような陽気な笑みを浮かべた。
ヨウについて少し語ろうと思う。僕たちは大学1年の10月に出会った。確か統計学の授業を受けていた時のことだ。授業が終わるとほかの学生たちは急いで学食に向かったが、ちょうどその日の授業の内容にのめりこんでしまった僕は席に座ったまま教科書を熱心に読み続けていた。完全なる忘我。もっとも幸福な時間だ。僕がわれに返ったとき教室にいたのは僕とヨウ、それに教授だけだった。ヨウは同じことを何度も教授に質問していたが、どうも納得がいかないという表情を浮かべていた。人はよさそうだが頭の回転はさほど速くないらしい、というのが、僕のヨウに対する第一印象だった。
僕は静かに本を閉じると、耳をそばだてて彼の質問をくみ取ろうとした。そしてどうやら、問題は教授の方にある、と悟った。僕は立ち上がり、彼の方へ向かった。断っておきたいのだが、僕はお人よしではない。重い荷物を運べずにいる老人はこれまで何度となく見てきたが、手伝ってやったことは無い。電車で席を譲ったこともない。というか、電車では座らない。しかし僕は、その時自然に——ほとんど反射的に——彼に声をかけていたのだった。彼には人を引き付ける磁石のような力があった。「そこは片側検定を使うんだよ。君は両側検定をしてしまっている。」僕はそれだけ言ってやった。彼は驚いたように僕を見た。その時の様子を今でもはっきりと覚えている。彼は僕の顔を見るだけではなく、僕の瞳の中にあるものを見ているような気がした。僕も無意識のうちに彼の眼を覗き込んだ。彼の眼にははっきりと僕の姿が映っており、さらにその僕の眼の中には彼の姿があるように見えた。ロシアの人形みたいだ、と僕は思った。
僕と彼はその後、一緒に昼食をとった。僕が大学生活で、友人と昼食をとるのは後にも先にもこの一度だけだった。単独行動を好んだからだ。その傾向は彼にもあるみたいだった。僕たちは単独行動の良さについてひとしきり語り合った後、いま単独行動していない自分たちを俯瞰し、笑いあった。
第五話 “阿修羅” 『ペットショップで君に逢う』