かきあげブログ

就職活動を通して考えたことをただダラダラと書いています。お許しください。

2018年12月


 

彼らの会話はしばらく、紗千さんが真司さんに何か賛辞を送っているような調子だった。「美しかった女性」は楽しそうに話していたが、同時にどこか大手術のときの医師のような緊張感を放っていた。というのも、彼女は、ちょっとでも間違ったところに触れたら終わりだと、意識を研ぎ澄ましているように見えたからだ。それでも彼女はその顔を、少しだけ美しくしながら話していた。

 

紗千さんは真司さんとの会話が一段落すると、やっと僕の存在が気になり始めたようだった。

 

なんなのこの子……とでもいいたげな様子で、紗千さんは、じっと僕を見つめた。

そして彼女は急に僕を責め立てるように震えた声で言った。

「あなたは初めて見る顔だけれど、真司さんのお知り合いかしら。」

 

そうです、と答えたのは僕ではなく真司さんだった。なんで彼は僕を擁護してくれるのだろう。

 

その時、先ほどの幼女が寄ってきて、真司さんに泥団子を見てほしいと頼んだ。僕は決して紗千さんと二人きりにはなりたくなかったし、それは彼女もそうだと思ったんだけれど、驚いたことに紗千さんは、「真司さん、ちょっと奈菜の面倒を見てもらってもいい?」と言った。

 

僕たちは二人きりになった。

 

紗千さんは再び僕を少し見つめてから、興味を失ったようにそっぽを向いたかと思うと、僕に背を向けたまま口を開いた。さきほどと打って変わって、深い慈悲のこもった声だった。

 

「そう。あなたも驚いたでしょう。この人の変容ぶりには。」

「ハ、ハイ。」魚屋さんに言われたことを思い出して、同調しておく。

「でも、どうして真司さんはああなってしまったんでしょう?」僕がそう聞いてみると、

「どうして?」と彼女は首をひねった。

 

僕が質問したはずだったのだが、彼女はそう聞き返してきた。

 

「え、ええ。きっかけは彼が恋人をなくしたことだと聞きましたが、それは傾く理由にはならないでしょう。」

「あら、本当に知らないのね。お知り合いさん。」彼女は再び、疑り深い魔女のような声を出した。

 

 
僕はこれ以上隠し通せそうになかったので、すべてを正直に言うことにした。

 

「真司さんを見て、療養中と聞いている叔母のことを思い出したんです。」

紗千さんは黙って僕の話の着地点を予想しているように見えた。

「なぜかはわからないけれど、たぶん香りだと思います。懐かしい香りがしたんです。」

「なるほどね。」意外にも、彼女は納得してくれた。そしてふぅ、と軽く息をついて、言った。

 

「彼はね、恋人の言葉が忘れられないのよ。」

「言葉?」

「そうよ。」

 

その時、間が悪いことに真司さんが戻ってきた。僕たちの会話の一部が聞こえたらしく、怪訝な顔をしている。

 

「何でもないわ。」と紗千さんが言う。

「天ぷらを作ったので、良かったら是非。」と真司さんが言った。

先ほどの様子からすると、奈菜ちゃんに作らされたのだろう。僕が同情していると、

「青年。よかったら君にも食べてほしい。」

驚いたことに、真司さんは僕に向かってそう言った。



第15話 どん底

目次



自分のしていることが信じられなかった。俺は爪を立てて、裕子の頬を思い切り掴んでいたのだ。

 

「裕子、その火傷の痕を取ろう?金なら俺がいくらでも出すから。」

俺は潤んだ声で言った。

「いいのよ。もうだいぶ慣れたし。それにお医者さんだって、かなり厳しいって言ってたわ。」

「そういう問題じゃないんだ。取ろう。何としても。」

「でも、真司。私の火傷はまったく気にしないって、言ってくれたでしょ?」

「いいからとるんだ!!」

俺は彼女の頬を思い切りつねり、乱暴に引っ張った。

 

「裕子、どうしたんだ!」

「何かあったの!?」

俺の叫び声と彼女の悲鳴に、両親が飛んできた。

 

「き……きみ!な・に・を・やっているんだ!!今すぐ裕子から離れなさい!警察を呼ぶぞ!!」

 

俺は言われた通り、彼女から離れた。彼女の頬には俺の爪痕がはっきりと残っていた。

 

「きみは裕子をもっと不幸にするつもりか?」幸助さんの眼光は俺を正気に返した。尚子さんは片手を口元に添えたまま、動けずにいた。

 

幸助さんのいうとおりだ、と俺は思った。もうちょっとで彼女の顔に別の傷をつくるところだった。そして心には、おそらく傷をつけてしまった。俺は彼女の火傷を消したかったんじゃない。そんなものは気にならなかった。でも、それが俺の罪によってできてしまった傷だとしたら……。頭が変になっていた。

 

 

そもそも、俺だけが悪いのか!あの本の誤りに気が付かなかった編集者も悪いんじゃないのか!それに気が付かなかった裕子も!ああ、なんて俺は最低なんだ!

 

気づいたら真司は、むせび泣いていた。

 

その顔は、おもちゃ屋で父親を口説き落とせなかった少年のようにクシャクシャで、その叫びは、暑い夏に車に戻ったら子供だけが冷たかった時のように悲痛で、その苦しみは、自分が起こした事故で最愛の人を失ってしまったときのように強大なものだった。初めての彼女の両親との対面で、声をあげて泣いている自分がいるなんて、昨日の自分には信じられないことだった。

 

昨日、俺は今日のために気持ちを整えた。裕子の火傷の話題もきっと出るだろうと思った。俺は彼女の火傷を気にしないし、彼女がそのことでつらい思いをしたときは俺が助ける、そう断言しようと決めていた。

 

それがなんだ?彼女の火傷の遠因が自分だと分かったとたんに、彼女の火傷を残しておいてはいけないと、態度を急変した。彼女の火傷を気にしない?お前は気にしないものに爪を立てるのか?火傷のことでつらい思いをしたら助ける?俺がつらい思いをさせているじゃないか。なんなんだよ。昨日の誓いは?俺はただの偽善者だったらしい。俺の彼女への思いは、そんなものだったのか。

 

俺はこんなことを、夜中の歩道に腰掛けながら考えていた。彼女の家を、何も言わずに出てきてしまっていた。

 

 

 

真司が出て行ったあと、幸助は「あの日」のことを思い出していた。深夜の12時ごろ、裕子の叫び声が聞こえ、彼は飛び起きた。急いで階段を駆け下りると、尚子が先に駆けつけていた。

 

見ると、そこには真っ赤に腫れあがった顔の裕子がいた。幸助は当惑しながらも、すぐに病院に連絡を取った。尚子は冷凍庫からアイスを取り出し、彼女の頬を全力で冷やしていた。

 

「大丈夫、落ち着いて、裕子。大丈夫だから。」そう言っている尚子自身が全く落ち着いていないことは明らかだったが、幸助もそれ以外に言うべき言葉を思いつけなかった。

 

いくら冷やしても、いくら声をかけても、裕子の叫び声の悲痛さは、より耐え難いものになっていくだけだった。悲劇だ、と幸助は思った。やがて尚子も泣き出した。幸助は涙こそ流さなかったが、しゃがみこんでいる彼女らの肩を抱くと、目いっぱいに唇をかんだ。

 

そしてそのとき、幸助は、裕子の隣に開きっぱなしの料理本が落ちているのを見つけた。ページには満面の笑みを浮かべるコックがいた。さらに開かれていたのは、幸助の大好きな、天ぷらのページで、そのことが幸助をやり切れない気持ちにさせた(裕子は幸助の大好きな天ぷらを作ろうとしていた)。どうすればいいのかもわからないまま、彼はそのページを思い切り剥いだ。

 

彼に責任があるとは思っていない。でも、もうこの家族には関わらないでくれっ!

 

幸助はそう思いながら、唇をかんだ。あのとき噛んだ唇と、同じ味がした。




第13話 美しかった人

目次

 

 

裕子にとって姉の祥子は、よき相談相手だった。祥子は、裕子とはおよそ対極にいるような性格の持ち主だった。周りを驚かせるのが好きだった裕子に対して、祥子はいつも落ち着いていて目立つことを好まなかった。それでも二人はとても仲が良かった。パズルの凹凸のピースのように、二人の性格はぴったりとはまった。

 

しかし、この日だけは例外となってしまった。最初にして、最後の例外、と言ってしまってもいいかも知れない。

 

祥子の家で、裕子が父親についての愚痴を、こぼしたときのことだった。

 

 

「あの人、ほんと最低よ!真司に罪がないことくらい、子供にだってわかるでしょうに。」

 

気が立っていた裕子は、強めの口調でそう言った。

 

「ちょっと裕子、それはないでしょ?お父さんだってあなたのためを思ってそうしたのよ。」

「だからそれが迷惑なのよ!」

「迷惑?」

「そうよ?私のことで気を使っているつもりで、逆に私が迷惑してるって、なんで気が付かないのかしら。お母さんもお母さんよ。困ったときはいつもお父さんの言うことを聞くんだから。あんな人たちが両親だったなんて。もううんざり!!」

 

すると、ふだん温厚で大人な祥子が、突然目を見開いた。

 

 

「あのね裕子?あなたが恋人を家に連れてくるって聞いたとき、二人がどれほど喜んだか、あなたにわかる?」

 

「そんなこと知らないわよ。知りたくもない。」

 

「わからないでしょうね。今まで自分だけが被害者だと思って生きてきたものね?」(だめ、止まって私の口)

 

「…………」

 

「この際だから言っとくけどね、私たち家族だって辛かったんだからね?大やけどを負って、落ち込んで、自分に自信が持てなくなって、生きる気力を失って。もうあなたは一生、恋愛なんてしないんじゃないか。そう思ってた彼らが、あのときどれほど喜んだか。あなたに分かるの?ごほっ、ごほっ。あなたが火傷のことを忘れようとして、必死に何も考えないように閉じこもっている間、私たちはあなたのために何か出来ることはないか必死に考えてきたのよ。」(裕子が一番苦しんだんだから、これ以上言ってはだめ……)

 

 

「それなのに何?迷惑?知りたくもない?ふざけないでよ!ごほっ、事前にお父さんたちに何も言うことなく、いきなりコッコを連れてきて、『はい、実は私の恋人はコッコでしたぁ!』って、そんなサプライズ、誰が求めてると思ってるの?……あんた言ったじゃない。私は、人を幸福にするサプライズをしたいんだって。あんたが連れてきた恋人がコッコで、私たちが幸福になるの?裕子の彼が、火傷を負わせるきっかけになった料理本の作者で、一体全体、どんな美談を作れるっていうのよ!」

空気を引き裂くような声で、祥子はそう言った。

 

 

「ごめん」裕子は唯それだけしか言えなかった。

 

その言葉で祥子は我に返り、しまったと指をかんだ。

 

「ごめん」裕子はもう一度そう言うと、玄関に向かった。

 

玄関を出るとき、「私こそ、ごめん。言い過ぎた。」という声が、後ろのほうでした気がした。しかし振り返ることはできなかった。

 

裕子はただ、祥子に話を聞いてもらいたかっただけだった。悩んでいることに、共感してもらいたかっただけだったのだ。

 

 

裕子は祥子の言葉を聞いて、私は自分のことしか考えていなかったのかもしれない、自分が多くの人に支えられているということに、本当の意味で気づけていなかったのかもしれない。そんなことを考えた。

 

裕子は、週末にお父さんと直接、しっかり話し合おう。そう決めた。しかし、実際にそれが実現することはなかった。それどころではなくなってしまったからだ。

 

 

2日後、祥子は事故に遭った。(祥子の一人息子と火傷の話をしたのはその時のことだ。)

 

 

     ☆

 

 

 

裕子のご両親に会った日から、俺は厨房に立たなくなった。「資格」が無くなったような気がしたからだ。一度決めてしまえば、案外やめるのは簡単だった。きっと俺の料理に対する情熱はその程度だったのだろう。

 

 

「料理人・コッコ、料理人グランプリで優勝!みたいな記事を読みたいわ、私。」あるとき裕子はそう言った。

「いや、料理はもうしないと決めたからな。」

「どうして!?」

彼女は今までに見たことのない、鋭い目をして俺を見た。

「なんとなく……情熱がわかなくなってしまったんだ。」

「もしかして私に気を使って?」

「違う。」

「私の父親が言ったことを気にしているのなら、どうかいますぐ忘れてほしい。私が、何の心の準備もなしに、あなたに会わせたからあんなことに……。」

「ほんとにそういうことではないんだ。気にするな。」

「そう……わかったわ。」

 

裕子はその時、控えめに言って絶望していた。俺はそれに気づいたけれど、それ以上その話題を続けることはできなかった。

 

 

 

 

俺が包丁を握らなくなってから2か月ほどが経った頃、俺のスマホに知らない番号から電話がかかってきた。

 

裕子さんが入院されました。五十代くらいの慎重そうな看護師は、重々しい声でそう言った。裕子さんは精神的な病を患っていているため、それを癒すためにしばらくのあいだ静かな森の奥にある療養所で治療をします。その看護師は丁寧な口調でそう説明した。

 




第16話 一つの料理には、ストーリーが詰まっているんだ

目次

  

 

 

『コッコの自信作 全部見せます。』

 

 

ブックシェルフには、俺が数年前に初めて書いた料理本があった。

 

裕子は以前、俺が料理人だということは知らなかったと言っていた。なのになぜ、俺の本がここにあるんだ。もちろん、これは尚子さんか、彼女のお姉さんのもので、裕子は今まで知らなかったということもあり得る。

 

しかし、その本を手に取った時、俺は違和感を覚えた。パラパラと中をめくると、あるページが破られてなくなっていた。俺はそのページを思い出そうとした。嫌な予感がする。

 

 

「天ぷらよ。」

後ろから、声がした。



俺はゾッとして振り返ったが、そこにあったのは人を深く安心させる、一対のひとみだった。

「裕子、教えてくれ。」真司はただ、真実が知りたかった。

「その前に一つ覚えておいて。」

「ああ。」

「1%もあなたのせいじゃない。」

 

その時コッコは、銃弾で頭を打ちぬかれたような気がした。

 

そうだ。この本のp.55は……

 

「油に、水を注いだのか?」

真司は恐るおそる尋ねた。

 

裕子は深いため息をついて、そうよ、と言った。

 

 

     ☆

10年前 裕子の誕生日の前日 23:50

 

 

ジューーーバチバチ

 

油がいい音を立てている。なんかノッてきたわ。私って料理の才能があるんじゃないかしら?フフフ。裕子はふとそんなことを考えたが、それは違うなと自分で気づいていた。

 

この料理本が私をエスコートしてくれている。未知の世界に導いてくれている。裕子は、なぜ母親がこの本をこんなにも大切にしているのかが、分かった気がした。この本を読みながら料理をしていると、まるで王子様とダンスをしているシンデレラのような気分になれるのだ。そしてこの国の王子様は――料理人・コッコだ。

 

ジュージューバチバチ

 

小気味よい音。裕子は料理の手順の次の項目を見た。

 

材料を油の中に入れていきます。

 

ええと、材料ね。

 

材料

・天ぷらの具材

・天ぷら粉

・塩……小さじ1

・水……適量

 

…………

 

この料理本には、これらの材料をボールで混ぜる段階がなぜか抜けていた。

 

ジューバチバチ、ジューバチバチ

 

裕子はエビと天ぷら粉を別々に入れることに違和感を覚えたものの、この料理人のことを完全に信用しきってしまったのか、きっとこれが料理人コッコのスタイルなんだろう、そう思うことにした。

 

彼女の眠気も、彼女の判断能力を極限まで鈍らせていた。

 

 

ジューーーージューーーー

 

裕子が油をのぞき込むとそこに自分の顔が映った。表情は見えなかったがなんか頼りないシルエットだな、と思った。

 

水……適量?この人の本にしては珍しく不親切ね。重い瞼がよりいっそう重くなる気がした。そして油の中に、たっぷりの水を入れた。入れてしまった。

 

 

瞬間!はじけた!!油が!顔が!そして輝やいていた人生さえ!!

 

 

 

 

「あれは明らかに常識知らずの私が悪いのよ。私、水を入れようとして、水がまさに油にぶつかる瞬間、気付いたのよ。ああ、自分はなんて馬鹿なことをしてしまったんだろうって。」裕子は自嘲気味に言った。

 

コッコ、あなたのせいじゃないわ。

 

…………

 

 

痛い、痛い……痛い!真司、やめて!!




第12話 破られたページと狂わされた人生

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真司が裕子の家に訪れる。裕子、彼女の両親、そして真司、4人での対面になった。

姉の祥子はすでに結婚して家を出ていたので、家にはいなかった。

 

裕子は両親にお願いをした。どんなことがあっても私が火傷したときの話はしないでほしい。彼らは笑顔でうなずいた。でも、事はそううまくは運ばなかった。

 

 

「はじめまして。沢野真司といいます。よろしくお願いします。」

彼は緊張をかみしめながら言った。

 

「あの……ひょっとして……コッコ……さん……?」裕子の母、尚子が聞いた。

「ええ。まあ。」

「まあ!!私、あなたの大ファンでしたのよ!」

言い終わったあと、尚子は裕子を見て、あたふたとした。

「ありがとうございます。うれしいです。」

真司は礼を言ってから、彼女の言葉を反芻した。大ファンでしたのよ。

 

過去形だ。そしてそれならば、なぜ裕子がそう僕に教えてくれなかったのか、真司は疑問に思った。

 

真司が少し難しい顔をしていると、それが尚子にも伝播したらしく、彼女はバツの悪そうな顔をした。その時の尚子の顔は、真司に、裕子に初めて名刺を渡したときのことを思い出させた。

 

 

真司と里川一家はその後食卓を囲んで団らんした。里川夫婦は真司の裕子への気持ちを、じっくりと咀嚼した。

 

「自分……彼女に一目惚れしてしまったんです。一目惚れすることなんてほとんどないんですが、裕子さんは人を惹きつけるような何かを持っていました。そしてお話をさせていただいて、やっぱり思った通りの方だと思いました。彼女はとっても素敵な人です。常に人を幸せにしようとしている……。でも、彼女はもっと自分の幸せも考えるべきだと思いました。自分が絶対必ず、彼女を幸せにして見せます!」

 

彼は尚子と、裕子の父・幸助に5秒ずつ真剣なまなざしを送った。彼らの額には汗がにじんでいた。裕子は彼らを、団扇であおぐような気持ちで見つめていた。

 

真司は話している最中、裕子の両親の表情の変化に違和感を感じ取った。真司の熱が増していくにつれて、彼らはちょっと困惑したような顔をしたのだ。それも、真司が変なことを言ったから、という風ではなかった。むしろ、真司に、気の利いたことを言ってほしくない、印象を上げてほしくない、とでも言いたげなその表情をみて、今度は真司が当惑してしまった。

 

「真司くん、ちょっと来なさい。」と幸助が言った。

「はい。」真司は立ち上がった。

 

「大丈夫よ。お父さんはきっとうまくやってくれるわ。」と尚子が言った。

「そうよね。きっとうまくいく。」と裕子が言った。

「なんか、いやな予感がするんだけど。」と二人の心の声が言った。

 

 

真司と幸助はウッドデッキの敷かれたテラスに出た。心地よい風が吹いている。この風が追い風となってくれればいいのだが……。真司がそんな事をふと思った時だった。

 

「罪滅ぼしのつもりなら、やめてほしい。」と幸助が鋭い口調で言ったのは。

 

「罪滅ぼし??」真司は驚いた。

「君、裕子から何も聞いていないのか?」

 

真司が首を振ると、幸助は目を閉じて、ため息をつき、これまた首を振った。

 

「すまんが裕子のことはあきらめてくれ。異性に一目惚れする奴なんて信用できん。」

明らかに別の理由があるように、真司には感じられた。

「そんな、もう一度お考えいただけませんか!お父さん!」

「お父さん?」

 

昨晩練習してきた呼び方が、裏目に出た。

 

「い……いえ、裕助さん。」

「俺は幸助だ。」

幸助の眉間には何層にもなる皺があった。

 

最悪だ、と真司は思った。取り付く島もない。すみません、トイレ借ります。真司はテラスから滑るようにリビングに入った。

 

リビングでは、尚子さんと裕子が楽しそうに話していた。あの顔は10分後、どうなっているんだろう。真司はそんなことを考えながら、「トイレお借りします。」と声をかけた。

 

「はあい。」声は明るかったが、尚子さんは心配そうなひとみで俺を見ていた。トイレに向かう途中、彼はリビングとは別の部屋にある、キッチンの前を通った。職業病か、ついつい覗いてしまう。

 

高級そうなものは置かれていなかったが、どこか家庭の愛情?のようなものを感じさせてくれるキッチンだった。真司は料理人で、これまでいろんなキッチンで仕事をしてきたが、これほど料理人をホッとさせるキッチンはなかなか無いと思った。そんな時、目に留まるものがあった。

 

キッチンの隣に、簡素なブックシェルフがあった。そしてさらに、その中でひときわ、見覚えのあるものがあった。

 

それは紛れもなく、真司の書いた本だった。

 

 




第11話 悲劇

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本当に長い道のりだった。真司さんと僕は国道から大きく外れると、どんどん人気のなさそうな方向へと歩いて行った。僕たちはボロボロにはがれた道路を一歩一歩進んでいった。

「あの、いまからバーベキューをするんですか?」と僕がくたびれた声で言った。

「ああ。」真司さんは答えた。

「一人でですか?」

「そうだ。」

「それなら、僕もご一緒させてもらえませんか?」

「だめだ。」

彼は即答した。

 

それならなぜこの重い荷物を持たされなくてはならないのだ。

「あの、真司さん。この先にバーベキュー場なんてありませんよ。」

「バーベキューは、バーベキュー場じゃなくてもできる。」

そのセリフは、どこかで聞いたことがあるような気がした。でも、どこで誰からきいたのかは思い出せなかった。僕たちはダラダラと続く坂道を歩き続けた。

 

歩き始めて3時間ほどたったところで、真司さんは「もし帰りたかったら、いつでも荷物を置いて帰ってくれていい。悪かったな。」と言った。おそらくそろそろ到着で、ここからは自分ひとりで荷物を運べるということなのだろう、と僕は推察した。なんとなく、僕が最後までついていかないことを期待しているようでもあった。

「大丈夫です。最後まで行けます。」僕は彼の期待を裏切った。

 

たまに通る車がいぶかしげにこちらを眺めていた。時刻は12時をを廻っていた。




第10話 真司、里川家にて

 
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