目次『ペットショップで君に逢う』


 僕は陳腐で退屈な授業を終えると、一度自宅に戻った。15時だった。ヨウの家に行くまでにはまだしばらく時間がある。アパートの駐輪場に自転車を止めると自転車が一台、ほかの自転車たちに虐げられる様に倒れていることに気が付いた。僕は人を気の毒に思うことは少ないのだが、倒れている自転車はほおっておけない。僕はその自転車をすっと起こし二度と倒れないように端のポールにもたれかけさせた。その時だった。

「にゃああ——にゃあああ」足元に猫がいた。すらりとした三毛猫で首輪をつけている。猫は僕の穿いているジーンズにその頬をこすりつけながら「にゃあぁぁぁぁ」と鈍い音を立てて啼いた。僕は、なんというか、本当に驚いてしまった。僕は猫に好かれたことなど一度もなかったからだ。

 次に猫は僕のボロボロになった銀色の自転車の後輪の雨よけに頬を摺り寄せながらその鳴き声をより一層鈍くさせていた。やれやれ。僕はまんざらでもない笑みを浮かべ二階にある自室に向かおうとした。すると猫もついてくるではないか。僕は自分の部屋の前で立ち往生してしまった。マタタビでも着いたのだろうか。僕はもう少し彼(彼女)と戯れていたい気分だったが、ヨウとの約束もあったので猫に別れを告げサッとドアを閉めて自宅に入った。ホッと息をついた。しかしそれもつかの間だった。「ぎゃあああああああ」外でものすごい声がした。僕ははじめそれが猫によって発せられた声だとさえわからなかった。猫は絶え間なく叫び続る。「ぎゃああああああああ、ぎゃあああああああ」まるで行方不明になった子供を探す母親のように。必死だった。

 僕は今、何をやっても集中できないことが直感的にわかったので16時30分にアラームをセットしベッドにもぐりこんだ。

 

「この猫かわいいわね」ペットショップで一つのかごを指しながら彼女は言った。僕はその猫を見ると鳥肌が立った。さっきの三毛猫がいたからだ。僕はこの場所を去ろう、と彼女に提案した。彼女は何も言わなかったが、僕の眼を見てこくりと頷いた。「君、名前は何というんだい?」夢の中で何とか主導権を獲得した僕は彼女に尋ねると、彼女は何か口元を動かした気がした。けれど僕がそれを認識することは無かった。僕は彼女の頬を両手で優しく包み顔を覗き込んだ。彼女の顔は近くで見てもなぜかぼんやりしていた。僕は絶望的な寂寥に襲われ、絶句してしまった。彼女もあえてその沈黙を破ろうとはしなかった。どこからともなく聞きなれたメロディーが聞こえてきて、その沈黙を射抜いた。

 

ピピピピ、ピピピピ、ピピピピ。ドン、ぴたっ。

16時半だった。

 

 猫の声は止んでいた。僕はベッドから起き上がると少しよろけながらドアの方に歩いていき、ドアスコープを覗き込んだ。そこに移っていたのはいつものようにゆがんだ廊下と手すりだけだった。僕は左手で歯を磨き、右手でTシャツとジーパンを脱いだ。そして右手に歯ブラシを持ち替えると、今度は左手で肌シャツと黒いシャツを着て、チノパンを穿いた。いつもの癖だ。そしてMの家に向かった。 

 僕は4つ入りの卵と玉ねぎとひき肉を買う。パン粉はこの前使ったものがまだ余っているはずだ。食材を買っていくのはいつも僕の役目だ、はあ。


第四話 “ヨウについて少し語ろうと思う” 『ペットショップで君に逢う』