目次『本音が音を、失うとき』


 
 その日龍は電車に揺られていた。今にも噴き出しそうな何かを目もとに感じながらだ。車両のシートに腰を掛けながら、彼はまるで竜巻に吸い上げられていくような感覚を体に感じていた。9月の平日、昼間の電車は驚くほどガラガラだった。その閑散とした空間はその時の彼の気持ちを映し出しているようだった。同じ車両には登山用のリュックを背負った大学生と思しき2人組と、力強いしわを持った初老の男性しかいなかった。大学生たちは体幹のトレーニングでもしているかのように、腕を組んで立っている。おじいさんは僕の向かいのシートに腰を掛け、これまた腕を組んで、目を閉じていた。

 

 当時彼はいつもボーっとしている少年だった。彼は煩さを好まず、心の平静を保ちながら生活していた。彼は器用な人間ではなかったし、行動するのも遅かった。それでも彼にはそんなことはまったく気にならなかった。

 

 しかし周りの人々は、気になるようだった。女子は多くの場合、彼のことをゆるキャラのごとく癒しキャラとして見ることが多かった。一方で少なからざる男子は、彼のことをどんくさい亀を眺めるように見た。やがて彼は、一部の男子にパシられるようになった。荷物を持たされるようにもなった。あだ名は「お荷物」になった。彼は苦しんだ。しかし決して、彼には頼れる人がいなかったわけではない。頼るのがいやだったのだ。

 

 彼には両親と二人の兄がいた。財務省に勤める勤勉な父親、介護施設で働くわりに厳格すぎる母親、体が大きくて筋力に長けた長男、美術や音楽などの芸術分野で頭角を現していた次男がいた。彼は家族のことを愛していた。しかし同時にその中にいる自分を恥じていた。

 

 自分にも彼らのようなラベルが欲しくて、なにかで家族に追いつきたくて、小学校の時は4教科の成績で、200人中一桁にまで上り詰めた。家族は彼の頑張りを認めてくれた。そのころの彼は無上の喜びに包まれていた。しかし、中学校に入ると彼の成績は急下降を始めた。彼は初見の問題をじっくりと思考して解くのは得意だったが、記憶力が著しく悪かったのだ。暗記を中心とした問題で構成された中学の問題に、彼は疑問を抱かずにはいられなかった。将来役に立つのはこんなものではないだろう、と。それでも家族は彼の思考力の高さを評価した。彼が家族団らんで自分の意見を述べると多くの場合、長男は大きな声で唸り、次男は目を細めて「美しいね、今の意見は。うん、美しいね。」と言った。普段は厳格な両親も、そんな時は微笑んで彼らのことを見ていた。

 

 しかし、龍のこの才能は同級生を相手に発揮されることは無かった。彼は家の外ではひどく無口だった。彼は無意識のうちに人を言い負かしてしまうことを恐れたのだ。そして、多くのおとなしい子がそうであるように、彼はいつもニコニコと笑みを浮かべていた。同級生にこき使われるようになってもそれは変わらなかった。彼は同級生を前にすると無限に弱くなってしまった。そして事件は起こる。


第4話 事件 『本音が音を、失うとき』