『Canon』目次


「ユー!!!」「ユーーー!!!!!………」「ユーーーーーーーー!!!!!!!!!」

誰かが……全力で僕の名前を叫んでいるのが聞こえる。懐かしい声。

 

まるで山で遭難した三歳児を必死に探している母親のようである。彼女の声は震え、その声は次第に必死さを増していく。しかしその必死さに反比例でもしたかのように、無情にも彼女の声は次第に遠く、ぼんやりしてくる。

やがて彼女の声が聞こえなくなる。四方八方、遥か彼方へと無限に続く静寂……。世界がピタリと止まって、どこかに引きこもってしまったようだ。

 

どこからともなくヨハン・パッヘルベルの『Canon』が聞こえてくる。誰かが口ずさんでいる。懐かしい声。


 

 

僕は目元が熱くなってくるのに気が付く。ずっと聞いていたいのに、目が覚める。

 

これは僕が幼少期に見た夢だ。

 

僕がこの夢を見た時、周りの大人は「怖い夢を見たね……かわいそうに」ただそれだけを言って僕の頭を撫でてくれた。

 

くれた?とんでもない。

 

撫でやがった。

 

騙しやがった。

 

 

ママのお葬式の時、周りの大人は口をそろえて、「君の母親は一人で山登りをしている最中に遭難して亡くなった」と言った。でも、それは嘘だった。生きている人間のために、死んでいる人間を犠牲にして作られた嘘。

 

あれは夢じゃなかったんだ。現実だった。ママは、遭難している僕を見つけようとして大けがをして、山で力尽きたのだ。そんなこと……耐えられない、とても。

 

やっぱり、騙してくれていたことに……僕は感謝すべきなんだろう……。

 

僕はママの話を、お父さんからほとんど聞いたことがなかった。初めて聞いた時のことは今でもよく覚えている。

 

僕はその時小学2年生だった。忌まわしい作文の宿題があった。テーマは「僕・私のお父さん・お母さん」だ。片方でいいならどんなに良かったことだろう。

 

「ねえ、パパ」

「うーん、なんだあ、ユー」

「僕のママって」その刹那、ほんの一瞬だけ、しかしはっきりと父の顔が大きくゆがむのが見えた。

 

パパはどんよりと暗くなりかけた顔をすぐにパッと明るくして何かを答えようとしたが、僕の方が耐えきれなくなってしまい、話を変えた。

「あ!そういえばさ……ぼ、僕のままでいいのかな、夜ご飯作るの。だってパパ、嫌でしょう?お仕事終わりに僕のまずいご飯は」

 

二人暮らしの僕たちは家事の当番を分担している。これからは僕が晩御飯を作りたい。そう一週間くらい前に申し出たんだ。でも、自分でいうのもあれだけど、その献立は恐ろしいものだった。漆黒(焦げだらけ)のハンバーグ、具のないシチュー、不仲な親子丼(ほとんど火の通っていない卵に、煮込みすぎて固くなった鶏肉)、エトセトラ、エトセトラ。どれもこれも、以前ホテルで料理人として働いていたパパを失望させるものばかりだったはずだ。

 

父はぽかんと口を開け僕を見た。そしてプッと吹きだし僕の頭を掻きまわした。

「パパは楽しいゾウ、パオーン。(まだ僕を子ども扱いしている。)ユーのつくったご飯を食べるのはパパの喜びなんだ」

「本当に?」

「ホントさあ!それに、パパ、ユーが一生懸命、料理本を見ながら作っているのを知っているぞ」

「え?」ユーは気恥ずかしくなった。パパには料理をしているところを見せたことがないはずなのに。

 

「ただ、もしもっと上手に作りたいとユーが思うんだったらな━━今週の土曜、パパと一緒に特訓するか!」

「うん!!」僕は大喜びした。やっとパパと一緒に料理ができる!ママの話はもう忘れていた。

 

しかしその夜僕が寝静まったころ、事件は起きた。



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