『Canon』目次


僕は電話を切ってしまった。

すぐに119番を押し、住所を言った。頭の中が混乱して何も考えられなかった。でも体は勝手に動く。僕はパパの書斎に行き、彼の顔に触れた。その刹那、僕の前に再び先ほどの夢の光景が浮かんできた。美しい『canon』の音色とともに。

 



 

「ねえ、あなた。ユーを置いてきてしまったの?」

パパの顔が青くなった。

「俺は、君にどうしても会いたいあまり、ユーを置いてきてしまった。君と、あの日交わした約束を、俺はとうとう守れなかった」

「ねえ、自分を責めないで。あなたのおかげで、あの子がどれほど強くなれたか分からない。あなたは、本当に、本当に……本当に頑張ってくれたわ」

 透き通るような声で、彼女は言った。


 

パパは号泣していた。お母さんのお葬式の時でさえ、びっくりするくらい忽然としていたのに。彼は目を真っ赤にして、自分を恥じているようだった。

「ユー?」

僕はハッとした。僕は彼らの様子を俯瞰しているのだと思ったが、実際にそこにいたのだ。

「ママ?」

「ユー、ユーなの?」

「僕だよ。ママ……」

その時、常に落ち着きはらっていたその女性は、初めて大きくたじろいだ。

「ごめんな。ユー。ごめんな。パパは、お前を護らなければならなかったのに」

 今まで生きてきた中で最も悲しそうな顔を、ユーは見た。もっとも、その相手はもう生きていないのだけれど。

 

一瞬、意識が薄れ、気が付くと僕たち3人はすぐそばにいた。ママは僕たち二人を包み込むように抱きかかえた。そのとき僕はフシギな感覚を覚えた。

 

僕は、彼女の子宮の中にいた。そこは、いままでに行ったどんな場所よりも、暖かくて、ホッとできる場所だった。人が生きていくために必要な安心の総量が、そこにはあるみたいに感じられた。遠くから、『canon』とともに、お母さんの声が聞こえてくる。

 

「ユー。あなたはこれ以上ここにいてはいけないわ。あなたは、あなたの世界に戻るのよ」

「いやだ。いやだよ、ママ……」

ママの前でこんな弱気な発言をしたくはなかった。だってパパがこんなにも強く育ててくれたのだから。でも僕の本能は嘘をつけない。

「ママがどうして死んじゃったのか、せめてその時のことを教えてよ……」

 

 しばらく間があった。ユーマ(ユーのママ)の困惑が伝わってくる。

 

 僕が真剣に彼女を見つめると、やがて彼女はあきらめたようにため息をついた。

 

「いいわ。でも、約束してほしいことがある」

 



次回
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