『Canon』目次

 ママは声をより一層穏やかにして、ささやいた。深みのある声だ。

「ママは3年前、山で行方不明になっていたあなたを探しに行って、大きなケガをしてしまったの。すぐには死ななかったけれど、流血がひどくてね。でもね、私、死ぬ前は死ぬほど幸福だったのよ。変な言い方だけど、死因は幸福死ってとこかしら。パパがね、私が死ぬ直前にきてくれたから。ユーが見つかったぞ。だから死なないでくれって、意識が朦朧としている私に何度も語りかけてくれた。私をおぶって必死に山を駆け下りていく姿は、私が今までに見たどんなものよりもかっこよかったわね。美しかった。私はそのとき、思ってしまったの。この人になら、あなたを任せられるって。」

  

 彼女は死に際を思い出していた。彼女は山道を必死に探し回っている際、山道の端から転げ落ちてしまった。勢いよく転がって木々が全身に刺さって血だらけになり、大きな岩に頭をぶつけたところで、ようやく止まった。彼女は全身を打ち、体を動かせないでいた。声も出ない。さらに悪いことに、そこからは山道が見えなかった。つまり、山道からも彼女の姿が見えないということだ。ため息すら出ない。彼女は死を覚悟し、静かにユーの無事を祈っていた。




 すると、あろうことか、ユーの父親、ユーパが目の前からやってくるではないか。最寄り駅の場所さえ覚えられずに、おどけていた方向音痴の彼が、特段鋭くもない勘の持ち主だった彼が、彼女のもとにやってきたのだ。

 彼女が笑いかけると、彼は0・1秒だけ微笑んだ。「安心しろ、大丈夫だからな」その微笑みはそう語っていた。そしてすぐに真剣な顔に戻る。彼は彼女に語りかけた。

「ユーは、無事だった。ユーマ、君が死んでどうする。ユーが待ってるぞ。ユーがまた優しく笑う顔が見たいだろう?」彼は自信の困惑を全く見せることなく、ユーマを励ました。


 

 彼は彼女を背負って走り出した。彼はただひたすら「大丈夫だ、ユーが待ってるからな」この科白だけを繰り返した。私は全身の傷口から血の代わりに涙が出てくるんじゃないか、と思った。彼の背中を眺めているだけで、私は自然に意識を保ち続けることができた。

 

しかし、私が生きて帰るには、距離がありすぎた。彼の背中はだんだん赤く染まっていく。私は「ごめんなさい、もうダメみたい」と言った。彼はそれ以上、私を励まそうとはしなかった。きっと彼も最初からわかっていたのだろう。

 彼は私に落胆した様子も見せなかった。ただ、背中だけは嘘をつけなかった。彼の背中は私の目の前で音を立ててバラバラと崩壊していった。

 

彼は私をそっと岩の上におろし、私たちは長い長いキスをした。そこには深い愛情はもちろん、彼の決意、誓いが込められていた。私も精一杯それに応えた。それは……おそらく数十秒だったけれど、私には永遠に感じられた。私はそこで、こと切れた。

 

私の人生で、最も幸福な時間だった。死ぬ時が最も幸せなんて、ホント、私って幸せ者よね。

 

 

 

 

 

「マ……マ?」

「あなたのお父さんがもう少し頼りない人だったら、私はあのとき死ななかったかもしれないわね。パパは今日、亡くなってしまったけれど、あなたが生きていく上で一番大切なことを、あなたにと教えてくれたはずよ。」

 

 僕はお父さんとの生活を思い出していた。浮かんできたのは彼のくだらないダジャレの数々。しかし、彼は、僕の前で後ろ向きなことを一切口にしなかった。

 

ママは息継ぎをして、言った。

「だからあなたは生き抜いて。あなたの人生を生き抜いて。この先に、どんなにつらいことがあっても、どんなに悲しい思いをしたとしてもよ。お父さんのような、カッコいい人になって。私たちはいつだって、いつだって、そばにいるんだから」

そして彼女はこう付け加えた。

寂しくなったり、苦しくなったりしたら、火を見てちょうだい。私たちは、あなたが望んだ時にそこに現れるから。


 ユーは深くうなずいた。僕はパパとママを失ったんじゃない。

パパとママにいつでも会えるようになったんだ。




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