僕たちはそのあとも淡々と歩いた。彼は魚屋に入った。魚屋の大将は先ほどのスーパーのおばちゃんとは全く異なるタイプだった。縦長の顔をした、髭がよく似合うオヤジさんだった。

 

「んだよ。暗い顔してさ。相変わらず傾いてんぞ。」

 

そう言うと魚屋さんは真司さんの頭を、傾いている側から持ち上げるように小突いた。するとそこに面白い光景があった。

 

 

傾いた城は、一度きれいに直立し、そして今度は反対側に傾く。

 

 

きれいに湾曲した体は、年若い女性が、男に向かって何かをたずねる際に、おおげさに体も傾けるしぐさに似ていた。

 

「古い仲なんだよこいつたぁ」

魚屋さんは(僕の方を見なかったが恐らく)僕に向かってそういった。なんとなく、わかります。僕はそう答えた。そして今度は僕の方から話を振ってみた。真司さんについてだ。

「彼はなんで傾いているんですか。」

魚屋さんはその細い目をすこし見開いて僕の方を見た。知らねえのかよ、という言外の声が聞こえる。

 

「その前に、お前さんは誰だ。真司とどういう関係なんだ。」

う。まあ、そうくるよな。僕はうまく答えられなかった。

 

あの、親戚っていうか……そう言いかけて、やめた。一度うそをつくと、クラスター状に大量のうそをつかなくてはならなくなる。

 

「先ほど、道端で目が合っただけなんですが、なぜか……ついてきてしまったんです。」

魚屋さんは魚のような目つきで、口を少しだけ開けていた。しゃべりだす気配はないので、僕がしゃべらなくてはならない。

 

あの、なんていうか、惹かれてしまったんです。気持ち悪いですがある種の一目惚れっていうか。もちろん惚れたわけではないですよ。惹かれただけです。

 

「そうかあ。兄ちゃんみたいな若い男が、真司にねえ。」彼は僕を茶化したが、それからしばらく、真剣にじっと僕の目を見た。僕がどこかの詐欺師ではないか、確かめるように。

 

僕は、小さいころ、初めて串刺しにされたイワシと見つめ合った時のことを思い出していた。あの時もなんとなく、責められているような気がしたものだ。やがて彼はニタッと口を緩めた。どうやらクリアできたらしい。

 

僕らは簡単な世間話をした。年配の方と話をするのは苦手な方ではない。基本的に相手の若いころの話を聞くことにしている。向こうが望めば、こちらの話をする。ジェネレーションギャップをなるたけ感じさせないように。

 

10分ほど立ち話をしていたら、いつの間にか話題は「真司さんについて」に戻っていた。

 

「あいつはなあ、ある時大切なもんを失っちまったんだ。」

「大切なもの?」

「恋人だよ。そのことについては親友の俺にも口にしたがらないけどなぁ……。風のたよりで聞いたんだ。俺も実際に会ったことはない子で、あいつ、頼んでも写真すら見せやしなかったんだけど、それはまあ別嬪さんだったらしいのよ。あいつもやるよなあ。くぅぅ。」

 

魚屋さんは眼鏡をかけて、隣にあった水槽に貼ってあるラベルを確認してから、僕のほうに向きなおった。そして真剣な表情に戻った。

 

「あいつ、そんときからいきなり変になっちまってな。『俺は出会う前にも彼女を殺し、出会ってからも殺した』なんて、わけのわからないことを言い出す始末なんだ。会ってないのに、殺せるわけぇゃ、ねえよなあ。それまでは本当に楽しそうだったのがウソみたいだよ。ホント。まあ、俺がとやかく口出しできることじゃねえのはわかってっけどもよ。」

 

 

短い沈黙があった。

 

 

「それからあいつの上半身が傾きだしたんだ。それもある日突然!ってわけじゃないんだぜ。日を重ねるごとにちょっとずつ、ちょっとずつなぁ、傾いていったんだ。これは聞いた話じゃあ無え。俺が実際に見たことだ。そしてそれに比例するように表情もどんどん薄くなっちまって。よくあんな奴に惹かれたなあ。兄ちゃん!俺の顔の方がよっぽど魅力的じゃないかい?」

 

彼はまじまじと僕の顔を見た。というか、僕に顔を見せた。魚の顔だ、と僕は思った。

 

「俺ぁ悲しいよお。兄ちゃん。あいつだって前は、結構男前な奴だったんだぜ。なあ、なんであいつはあんな風になっちまったんだ。」彼は最後には僕に尋ねてきた。

 

 

そうこうしてるうちに気が付くと、真司さんがいなくなっていた。レジに1枚の置き紙があった。

 

エビを4匹もらっていく。代金はあの場所にある。悪いな。

 

それを見るとおじさんは、タイの水槽を怪力できもち持ち上げ、その下をあさった。するとヒョコッと一万円札が出てきた。

 

俺と真司は付き合いが長いからな。俺が客と話しているとき、あいつはよくこうするんだ。こう見えても俺は完全にあいつを信じてんだ。こうすれば俺も客との会話を中断しなくていいし、あいつも待ち時間を省ける。Win-Winってやつだな。

 

魚屋さんは誇らしげにそう言った。

 

でもこいつ……珍しいな。いつもなら、「代金は次の時でいいか?」って書いて帰っていくんだぜ。もう帰っているんだから、「次のときでいいか?」はおかしいだろ?ったく。

 

そういいながら魚屋さんはほほ笑んだ。僕もほほ笑んだ。

 

 



第5話 裕子さんがそばにいて、応援してくれている

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