自分のしていることが信じられなかった。俺は爪を立てて、裕子の頬を思い切り掴んでいたのだ。

 

「裕子、その火傷の痕を取ろう?金なら俺がいくらでも出すから。」

俺は潤んだ声で言った。

「いいのよ。もうだいぶ慣れたし。それにお医者さんだって、かなり厳しいって言ってたわ。」

「そういう問題じゃないんだ。取ろう。何としても。」

「でも、真司。私の火傷はまったく気にしないって、言ってくれたでしょ?」

「いいからとるんだ!!」

俺は彼女の頬を思い切りつねり、乱暴に引っ張った。

 

「裕子、どうしたんだ!」

「何かあったの!?」

俺の叫び声と彼女の悲鳴に、両親が飛んできた。

 

「き……きみ!な・に・を・やっているんだ!!今すぐ裕子から離れなさい!警察を呼ぶぞ!!」

 

俺は言われた通り、彼女から離れた。彼女の頬には俺の爪痕がはっきりと残っていた。

 

「きみは裕子をもっと不幸にするつもりか?」幸助さんの眼光は俺を正気に返した。尚子さんは片手を口元に添えたまま、動けずにいた。

 

幸助さんのいうとおりだ、と俺は思った。もうちょっとで彼女の顔に別の傷をつくるところだった。そして心には、おそらく傷をつけてしまった。俺は彼女の火傷を消したかったんじゃない。そんなものは気にならなかった。でも、それが俺の罪によってできてしまった傷だとしたら……。頭が変になっていた。

 

 

そもそも、俺だけが悪いのか!あの本の誤りに気が付かなかった編集者も悪いんじゃないのか!それに気が付かなかった裕子も!ああ、なんて俺は最低なんだ!

 

気づいたら真司は、むせび泣いていた。

 

その顔は、おもちゃ屋で父親を口説き落とせなかった少年のようにクシャクシャで、その叫びは、暑い夏に車に戻ったら子供だけが冷たかった時のように悲痛で、その苦しみは、自分が起こした事故で最愛の人を失ってしまったときのように強大なものだった。初めての彼女の両親との対面で、声をあげて泣いている自分がいるなんて、昨日の自分には信じられないことだった。

 

昨日、俺は今日のために気持ちを整えた。裕子の火傷の話題もきっと出るだろうと思った。俺は彼女の火傷を気にしないし、彼女がそのことでつらい思いをしたときは俺が助ける、そう断言しようと決めていた。

 

それがなんだ?彼女の火傷の遠因が自分だと分かったとたんに、彼女の火傷を残しておいてはいけないと、態度を急変した。彼女の火傷を気にしない?お前は気にしないものに爪を立てるのか?火傷のことでつらい思いをしたら助ける?俺がつらい思いをさせているじゃないか。なんなんだよ。昨日の誓いは?俺はただの偽善者だったらしい。俺の彼女への思いは、そんなものだったのか。

 

俺はこんなことを、夜中の歩道に腰掛けながら考えていた。彼女の家を、何も言わずに出てきてしまっていた。

 

 

 

真司が出て行ったあと、幸助は「あの日」のことを思い出していた。深夜の12時ごろ、裕子の叫び声が聞こえ、彼は飛び起きた。急いで階段を駆け下りると、尚子が先に駆けつけていた。

 

見ると、そこには真っ赤に腫れあがった顔の裕子がいた。幸助は当惑しながらも、すぐに病院に連絡を取った。尚子は冷凍庫からアイスを取り出し、彼女の頬を全力で冷やしていた。

 

「大丈夫、落ち着いて、裕子。大丈夫だから。」そう言っている尚子自身が全く落ち着いていないことは明らかだったが、幸助もそれ以外に言うべき言葉を思いつけなかった。

 

いくら冷やしても、いくら声をかけても、裕子の叫び声の悲痛さは、より耐え難いものになっていくだけだった。悲劇だ、と幸助は思った。やがて尚子も泣き出した。幸助は涙こそ流さなかったが、しゃがみこんでいる彼女らの肩を抱くと、目いっぱいに唇をかんだ。

 

そしてそのとき、幸助は、裕子の隣に開きっぱなしの料理本が落ちているのを見つけた。ページには満面の笑みを浮かべるコックがいた。さらに開かれていたのは、幸助の大好きな、天ぷらのページで、そのことが幸助をやり切れない気持ちにさせた(裕子は幸助の大好きな天ぷらを作ろうとしていた)。どうすればいいのかもわからないまま、彼はそのページを思い切り剥いだ。

 

彼に責任があるとは思っていない。でも、もうこの家族には関わらないでくれっ!

 

幸助はそう思いながら、唇をかんだ。あのとき噛んだ唇と、同じ味がした。




第13話 美しかった人

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